鹿鳴館観劇レポ

10月2日に鹿鳴館を観劇してきました。

キャスト

影山悠敏伯爵 日下武史
同夫人 朝子 野村玲子
大徳寺侯爵夫人 季子 中野今日子
その娘 顕子 岡本結花
清原永之輔 山口嘉三
その息 久雄 田邊真也
飛田天骨 志村 要
女中頭 草乃 坂本里咲
宮村陸軍大将夫人 則子 木村不時子
坂崎男爵夫人 定子 佐藤夏木
宮村陸軍大将 田島康成
坂崎男爵 渡久山 慶

ざくっと(じゃない)感想

まず、言いたい事は、劇団四季最高の舞台です。
ミュージカルより圧倒的に面白い。
本を読んでから観劇しましたが、やはり戯曲は
舞台の上で生きます。
もちろん演出家にかかっていますが。

各キャストに関して

このキャストに関しては、私のようなものが口を挟めるレベルではないことは
承知ですが、書きたいと思います。

影山伯爵演じる日下さん
この人の台詞は、とてつもなく精度が高い。
詩人は、詩の言葉を選ぶとき、それ以外ないありえない、という言葉を選ぶようですが、
まさに日下さんの台詞は、余計な解釈を許さないような精度を持って
発せられます。感服いたしました。
日下さんはもう若くはありません。
今のうちに、劇団四季の劇団員は、この人の芝居を盗まなければいけないと
思います。ぜひ毎日見てもらいたいと思います。いや、四季の劇団員だけでなく、
台詞を言う仕事をしている方は全員見るべきではないでしょうか。
(と勝手に思ってしまいました)

朝子夫人演じる野村さん
日下さんのあれほどまでに洗練された台詞には、普通付いていくのがやっとではないでしょうか。
特に、前半部分(第2幕)と後半部分(第4幕)の最後の、二人の会話。いや、あれは対峙ですが。
ともすれば、人を飲み込んでしまう影山伯爵に対し、しっかりと間をおき、台詞を言うことで、
それを防ぐ。また、影山伯爵との立ち位置の関係もすばらしい。(これは演出かと思いますが)
正面を見られる位置にたち、「さぁ、かかってきなさい」と言わんばかりの間合いです。
また、うその演じ方がとてもうまい。「うそをついて、なおかつ、それを見破られない、けれども
うそをついてる感じはする」とはどういうことなのか。それを知るのは朝子の演技を見るのが
一番だと思いました。
また、朝子にとっては、あくまで久雄が一番である、ということがよくわかりました。

大徳寺侯爵夫人季子演じる中野さん
季子の台詞にこうあります。
「私はどなたよりもあの方をよく知っているという自信がありますの」
朝子の人物像はすべて季子が語ります。その語りがうまい!
まさに朝子はその通りの人物なのです。
「偽善もあなたのお手にかかると、匂いのいい花束のようになってしまうのね」
なんて台詞もあります。
季子だけでなく、朝子もよく理解していなければ、あのような季子は演じられないので
はないでしょうか。
また、季子はとても素直な方です。この人が実は一番真が強い。
それもよーく出ていたと思います。

顕子演じる岡本さん
岡本さんは初めて見ました。とても必死に付いていっているように感じました。
その必死さが、顕子の必死さと素直さに上手に結びついていて、
うまく演じられいたと思います。また、とてもきれいな方です。

清原永之輔演じる山口さん
清原は世間的には、「過激だけど、高潔な人物」と見られています。
しかしその一方とてつもないいやらしさももっています。
つまりは、この人もただの政治家です。
影山伯爵とは見ている方向が違うだけなのです。
それが久雄が嫌った理由ではないでしょうか。
そのいやらしさがもっともよく出るのが、第2幕の朝子との
再開のシーン。始めは高潔な清原ですが、だんだんいやらしさが
でてきます。朝子もそれに気が付いていて、久雄のために、利用します。
朝子が寄ったときの清原のこころがいやらしい。
それがよく見えました。

久雄演じる田邊さん
書生として、影山夫人の前に現れる最初のシーン。まさに書生だと思いました。
実際のあの時代の書生を見たことはもちろんありませんが、それでも、まさに
書生とはああいうオーラを持っていると思いました。
(当たり前かもしれませんが)そこらへんをよく勉強されているのではないでしょうか。
また、朝子が母親だと知ったときの動揺。
普段閉じていたこころが、一気に開いて、すこしバランスが崩れます。
なんとか持ち直し、しかし、近寄るとまた崩れそうなので、朝子と距離をおいて、
会話します。その崩れ具合がなんともうまい。「ぐはっ」という声が聞こえてきそうな
感じでした。
第3幕では、父殺しを(実際には死を)やめることにしましたが、まだ若いので、決めたことを
曲げてしまったことにやはり納得がいかない、しかし、母は大事、そんな心境の中
影山伯爵にそれを見抜かれて、飲み込まれてしまいます。
いや、実際には、久雄は、あの時代の「死に場所を求める若者」のひとりだったのではないでしょうか。
それを奪われ、顕子との色恋に走っている自分をちんけに感じていたところに、影山伯爵が
ナイスパスを出した、と言う感じです。そこらへんの演技がとてもうまい。
「そうだなあ、僕の考える旅はますます美しい、ますます空想的なものになったんです。」
この旅は、「死」ととってもいいのではないでしょうか。

...といっても、僕自身まだ23歳ですので、揺れ動いてしまうところは笑ってはいられません。

飛田天骨演じる志村さん
飛田は殺し屋です。では殺し屋とはいったい何なのか。それは飛田のことです。
そんな説明が出てくるような飛田でした。

草乃演じる坂本さん
草乃もやはり人間です。飛田のようにはなれなかった。主人に対し、どうしてもうらやましいと
感じてしまう。そこを影山に見抜かれ、まんまと「女間者」となってしまいます。
とても印象的だったのは、「私はまだ美しゅうございますか。」という台詞。
「女中の草乃」ではなく、「女としての草乃」になっていました。

さてさて....俳優について書いているいるうちに長くなってしまいましたw
というかこれでほとんど出し切ってしまった感じがしますが、もう少し書きます。

全体的に

少し長いですが、飛田に対する、影山伯爵の台詞を引用します。
「政治とは他人の憎悪を理解する能力なんだよ。この世を動かしている。
百千百万の憎悪の歯車を利用して、それで世間を動かすことなんだよ。
愛情なんぞに比べれば、憎悪のほうがずっと力強く人間を動かしているんだからね...。
いわばまぁ、そうだ、その菊をごらん。たわわに黄いろの花弁を重ねて、微風に揺られている。
これが庭師の丹精と愛情で出来上がったものだと思うかね。そう思うなら、
お前は政治家にはなれんのだ。政治家ならその菊をこんなふうに理解する。
こいつは庭師の憎悪が花ひらいたものなんだ。乏しい給金に対する庭師の不満、
一念疑ってこの見事な菊に移されて咲いたわけさ。
花作りというものにはみんな復讐の匂いがする。」
この台詞の意味をしっかりと考えてみたい。

この演劇は、観客側にも、それなりの試練を要します。ミュージカルならば、
音楽に合わせていればよく、(そしてそれが楽しいのですが、)戯曲では、
台詞に自分で付いていかなければなりません。
ハムレットならいざ知らず、鹿鳴館も長い台詞が多く、「台詞」を謳うだけだけの戯曲であるため、
理解していくのが困難なこともあります。
こちら側にも理解できるだけのものがなければならない。必死に舞台を見なければならない。
だが、それによって、観客と俳優の間に一体感がうまれ、すばらしい演劇と進化していくのではないでしょうか。

最後に、公演プログラムnの諏訪正さんの記事にある、三島由紀夫の言葉を引用したいと思います。
「舞台と観客との交流を調整し規制するものは、新劇では、演技の型ではなくて、
戯曲の文体であろう。観客を目ざめさせ、観客自身がその中に眠っている
既成の生活感情からよびさますのは、まさに戯曲の文体であって、
新劇の観客は、演技の型による馴れ合いを求めて見に来るのではなく、
呼びさまされるために見に来るのだと云っていい」

それを実現したのが、「鹿鳴館」です。
もう一度鹿鳴館が見たい。